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植田上丁遺跡の出土銭

平成2年(1990)、当時の十文字町役場の植田支所近くから3000枚余の古銭が出土しました。その状況から遺跡として認められ、 出土地の通称をとって「植田上丁(うえだかみちょう)遺跡」と名付けられました。出土枚数は国内の出土例でもかなり多い方で、また年代的にも古く、 貴重な存在です。この古銭について、『十文字町史』(平成8年十文字町発行。以下『町史』と略す)と『貨幣の地域史―中世から近世へ』 (平成19年岩波書店発行。以下『貨幣の―』と略す)などを参考にしながら考えてみたいと思います。

出土の状況

平成2年(1990)2月、当時の植田支所向かいにある土田武則氏宅の裏から3088枚の古銭が出土しました。道路改修に伴う排水路工事のため溝を掘って いたところ、パワーショベルがほぼ1mの深さの地点から掘り当てました。発見した人たちから通報があり、当時の十文字町史編纂室が持ち帰って調査に当たりました。

出土銭とともに、ごくわずかながら、細く短い糸状になってしまった麻ひものようなものと、マッチ棒の燃えかすのような、ごく小さな木の破片がいくつ か出土しました。これらのことから、出土銭は100枚(実際には、当時のルールとして96~97枚)ごとに紐で結んで木の箱に入れて埋めたものと思われます。

出土銭の分類

持ち帰った古銭は、その多くが、びっしりと固まった状態で、外側に土がこびりついていました。それを水に漬け、1日ほど放置してからつま楊枝で1枚1枚はがしてい きました。

出土したものは、判読できるすべてに中国の銭の名前(銭銘という)が鋳られていて、中国で作られ、日本に輸入された可能性が高いと判断されました。 ただし判読不明のものも16%ほどありましたし、判読が難しいものもかなりありました。判読は主に私が担当しましたが、分類に苦労した覚えがあります。 同じ銭銘でも書体がさまざまで、読み取りにくかったのですが、もう一つ、鋳上りが悪くて文字の浮き出しが浅かったり、サビ(緑青)で読みにくくなったものも多 くありました。

時代としては、漢(紀元前206~紀元後220年)の時代のものが3枚あり、唐(618~907年)の時代のものは、その大多数の296枚が開元通宝 でした。ちなみにこの開元通宝は、わが国の和同開珎を始めとして、その後の東洋の銭の形のモデルになったものです。重さは3.75g、直径は2,4cm、 昔の長さの単位でいうと8分です。開元通宝1枚は1文と呼ばれました。で、その重さが1匁(文目)です。直径の方は、最近まで足の長さの単位として使われました。 私の足は25cm。「10文半」の靴をはいていました。余談ながら、明治政府が定めた尺貫法は、1尺が33分の10m、1貫目は4分の15kgと、 メートル法を基礎にして定めています。覚えておくと換算のとき便利ですね。

話をもとに戻すと、出土した銭のうち圧倒的に多いのが、北宋(960~1127年)の時代のものです。全体の4分の3近くを占めます。そして南宋(1127~1279年)の銭が若干あり、その中で淳祐元年(1241)に発行された淳祐元宝が年代的には最も新しいものです。

いつ埋蔵されたのか

したがって、埋蔵された年は、淳祐元年に作られた銭が日本に渡り、いくばくかの年月を経て植田に到来した期間を勘案して、南北朝時代頃から室町時代かと『町史』は推定しています。

ところが、ここで問題になるのは銭銘不明の485枚です。一般に銭銘の鮮明度は開元通宝が最も良くて、北宋で作られた銭がこれに次ぎ、南宋の銭はあまり鮮明ではないとされています。植田の出土銭もこのような傾向があって、北宋の銭も前期のものは分類しやすいのですが、後期に作られたものは銭銘がぎりぎり判読できるようなものが多く見られました。かった。流通の過程でこのように大きくすり減ることは考えにくいので、製作当初から鋳上りが悪かったものとしか考えられません。そして官営の工房からこうした銭が流通に回ることは考えにくいのです。そこで、可能性の一つとして、16世紀に中国で多量に生産された私鋳銭であるということ(『貨幣の―』)という考えも出てきます。この場合、埋蔵の時期は大幅に下がります。しかし1411年から明で作られ、16世紀後半には日本で多く流通していた永楽通宝は1枚も出ていません。宋の時代に続く元の時代や、それに続く永楽通宝に代表される明の時代に作られた銭もでていないのです。

したがって、銭銘不明の銭や、一応宋の時代などと分類した銭の一部が、私鋳銭=民間で、または政府以外で鋳たものの可能性はあるものの、やはり元や明の時代の銭銘がある銭が出ない以上は、南北朝時代から室町時代の前期、おそらく1350年ころ以前に埋蔵された可能性が高いと思われます。だとすれば、現在のところ東北では最も古い時期の埋蔵銭です。

誰が、何のために埋蔵したのか

これは、この遺跡が発見された時から話題になっていたことです。『町史』は、大量の銭が出土したことから、①市場が成立していた ②年貢が銭納であった ③周辺村落を支配していた在地領主が存在していた と推定しています。植田の領主が埋蔵したとするには銭の数量が少ないように思われるので、市場で活動していた商人が埋蔵した銭と考えるのが妥当のように思われます。すぐ近くに八日市・一日市の地名があり、また古四王神社・熊野神社があって、村はずれでかつ神社も近いという、中世の市場が立つ環境にあることもそれを裏付けます。

では、なぜこの場所に埋めたのでしょうか。現在の植田の町割りが当時からあったとすると、ここには屋敷がなく、戦乱などで逃げる際に埋めて、そのまま掘り返されることがなかったと考えられます。

しかし、古四王神社(もとは隣接して存在した熊野神社の方が中核であったか)と植田城を結ぶ道(発見のきっかけとなった改修道路の原型)脇にこの商人の家があったと考えることもできます。発見時にあった木くずのようなものは、床下に隠した金庫の役割をした木箱かも知れません。この場合は家の床下に隠したまま、家族がいなくなったこと、そして近くには市場に関係した家々が並んでいた可能性があります。

『貨幣の―』では、通常蓄えておく銭は、質の良いものを選んでいることが多いとしています。上丁遺跡の銭は、判読不明の銭を含んでいます。ただその銭の外形は悪くなく、サイズも判読できる銭との差はほとんどありません。この銭を良質なものと見るか、劣悪なものと見るかで結論が違うように思われます。

どれ位の価値があったのか

この3088枚の銭は当時どれぐらいの価値があったのか、よく聞かれます。そもそもいつの時代の銭かはっきりしませんし、東北の物価事情もほぼ不明で、さらには判読不能の銭が1文として通用したのか、わからないことが多すぎて何とも言いようがありません。

かなり後の時代になりますが、太閤検地の段階では、下田1反(10アール)で150文とされています。ややランクの低い、ただ面積的には多い下田から1反あたり150文の年貢が上がるということで、江戸時代には下田1反は1石と評価され、税率はさまざまですが、仮に50%とすると年貢は5斗。つまり5斗=150文、1石=300文となります。上丁遺跡出土の銭で10石の米が買える計算になります。また1500年代前半の甲斐国の記録では、米価が1石500~1000文の間を激しく乱高下しています。年貢には付加税がつきものですし、検地測量の精度もあります。甲斐国の場合は、貨幣の質が大きな問題になっている時期です。とにかく年代の違いが大きすぎますが、一応の目安かもしれません。

本当の価値は?

当時の価値は以上のとおりですが、現在この出土銭を古銭の店に持ち込んでもほとんど値段がつきません。比較的どこにでもある銭である上に、不鮮明、痛みなど販売上欠陥の多い銭だからです。しかし、歴史的には貴重な資料で、さらに分析していくとすばらしい結果が出ることと思います。この学術的な価値がこの出土銭の最大の価値でしょう。出土地の付近を発掘するとさらに面白い結果が出るかも知れませんが、遺跡を破壊してしまうと取り返しがつきません。きちんと調査ができる時まで、静かに遺跡を見守っていきたいものです。

十文字芸術文化協会

担当幹事 土肥 稔
TEL:080-2817-2588